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第4回追悼・感謝−英霊顕彰・県民の集い
日本軍将兵、英・米・独の外交官、南京の国際委員会、南京市民、国民党政府、外国人記者による日本軍の不法殺害の指摘なし


■日本軍の不法行為は十件前後の掠奪と強姦
 日本軍の「戦闘詳報」や日本軍将兵の「陣中日記」をもとに日本軍の南京戦を再現してきたが、日本軍の不法行為は十件前後の掠奪と強姦であった。当時の人々は、南京大虐殺が起きたとは考えていなかった。そう判断する根拠をもう少し述べておきたい。
 南京陥落から三日後に出た『シカゴ・デイリー・ニューズ』を皮切りにして、その後も幾つかの新聞や雑誌が南京大虐殺を報じていた。たとえば『タイム』二月十四日号は「スティール特派員から遠隔の地の〈南京虐殺〉にかんする重大な証言を受信した」とか、三月十六日の『サウスチャイナ・モーニングポスト』は「最近南京から戻ったアメリカ人が日本軍の占領の模様を語った」といった南京関係の記事を出していた。それは、南京大虐殺の源流を作った対敵宣伝本の『戦争とは何か』に関係した人たちの話と、アメリカの新聞記事とに依拠していた。  
 ところが、そのころ、日本軍は第十四章にも述べたように一月下旬から三月にかけて、南京に来ていた避難民を、上海はじめ近接周辺地域へ帰還させていた。もし右の新聞が報じたような大虐殺が起きていたのであれば、上海などに帰還した避難民たちは南京の惨事を喋りまくっていたであろう。また上海の外国人記者たちは我先にと彼らから生の情報を入手し、それをビッグニュースとして世界に発信していたであろう。しかし「南京から帰ってきた人たちの話によると」といった肝心なニュースソースは、ついぞ出たことがなかった。そもそも南京での大虐殺が事実であったのならば、ほかならぬ日本軍が情報統制に乗り出し、避難民を各自の故郷に送還させることなど絶対にしなかったであろう。
■国民党中央宣伝部の三百回の記者会見で一度も出なかった南京大虐殺
 またラーベ委員長が匿っていた龍大佐や周大佐は二月十四日に、汪漢萬空軍将校は二月二十三日に南京を離れている。またフィッチ師も一月二十九日に南京を出て、二月十二日に南京に戻っている。従って、国民党中央宣伝部は彼らから直接話を聞いて、南京の大事件を宣伝してよかったはずだが、そのような南京大虐殺の発表は、南京陥落から重慶遷都までの間に三百回も行われた国民党中央宣伝部の記者会見においても、ついぞなかった。外国人記者からも質問が出ることはなかった。  
 ついでながら記しておくと、次のような資料もあった。それは奉天のジャパン・ツーリスト・ビューローの発行した旅行案内の小冊子で、表紙には「天津から南京へ」という書名が書かれ、南京の名所旧跡が写真入りで紹介されていた。その印刷は、昭和十三年五月三十日で、発行は六月五日となっている。少なくとも印刷に三ヵ月を要すると仮定すると、この旅行が企画されたのは遅くとも昭和十三年二月であったことになる。南京大虐殺が事実であったとすれば、南京陥落から二ヶ月しか経っていない段階で、はたして南京旅行が企画立案されたであろうか。
■世界の対日感情を悪化せしめた米国宣教師たちの悪質デマ
 このように当時の人々は、誰も南京大虐殺を思ってもいなかった。こう見てくると、上海にいた中支那派遣軍報道班の馬渕逸雄中佐が『報道戦線』(昭16)のなかで分析していたことが思い出されてくる。
《南京には外人記者が二、三居残つて、市中を巡回した形跡があつた。彼等は攻略日本軍の行動を観察して、アラ、欠点を探索し第三国の対日與論を悪化せしめんとするスパイ的存在であるので、之が行動を完封したのであるが、それにも況して悪影響の種子を蒔いたのは、米国宣教師達の悪質デマ通信であつた。恰かも入城した日本軍が鬼畜の行動を為したかの如き通信をなし、世界の対日感情を悪化せしめた》  
 もう一度述べておきたい。その当時、日本軍将兵も、英・米・独の外交官たちも、南京の欧米人たちの国際委員会も、南京市民も、国民党政府も、上海その他の外国人記者たちも、南京の日本軍の不法殺害を指摘したことはなかった。言うまでもなく彼らは、『再現南京戦』の扱った時代に生きていた人たちであった。
(『再現南京戦』エピローグより)


【日 時】 8月 10 日(日)13 時開会 (12時開場)
【場 所】 福岡国際ホール(大ホール)
 福岡市中央区天神1−4−1−16F ( 092-712-8855 )
【講 師】 東中野 修道氏(亜細亜大学教授/日本「南京」学会会長)
【演 題】 「再現南京戦−南京占領の虚と実」
【参加費】 1,000円(大学生以下無料)